五王戦国志 外伝 雪花譜 井上祐美子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)衛《えい》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)〈琅〉王|赫羅旋《かくらせん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地から1字上げ]井上祐美子 ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/08b_000.jpg)入る] [#挿絵(img/08b_001.jpg)入る] 〈カバー〉 七万の軍を率いて優勢を誇る〈衛《えい》〉公・耿無衛《こうむえい》の虚をつき、〈琅《ろう》〉の軍勢は〈征《せい》〉の領土から攻め入った! 戎《じゅう》族の傭兵出身の〈琅〉王|赫羅旋《かくらせん》と覚悟を決めた漢たちは、統率された兵と智慧を極めた決死の闘いに挑む。五人の覇者の八年にわたる興亡の歴史が、ここに終結する!! 巻末に外伝『雪花譜』を収録。 著者紹介 井上《いのうえ》祐美子《ゆみこ》 姫路市生まれ。神戸大学卒。『長安異神伝』『五王戦国志』などで人気を博した後、本格的な中国歴史小説に取り組み、『桃夭記』で吉川英治文学新人賞候補となる。 清朝の礎を築いたドルゴンと清初の漢人武将・呉三桂の半生を描いた『紅顔』『海東青』、花に寄せた中国歴史短篇集『非花(はなにあらず)』など、斬新な切り口の小説を発表。歴史小説界に新風を巻き起こす期待の若手である。 [#地付き]カバー題字 黄明勝/尖端出版 [#地付き]カバー画      小林智美 [#地付き]カバーデザイン しいばみつお [#地付き](伸童舎) [#改ページ] 中公文庫  五王戦国志8 天壌篇より   五王戦国志 外伝 雪花譜 [#地から1字上げ]井上祐美子 著 [#地から1字上げ]中央公論新社 [#地から1字上げ]DTP オフィス・トイ   目  次  雪花譜   文庫版あとがき [#改ページ] 雪花譜  朝から曇っていたし、風の向きや匂いで天候が変わることは予想していた。ただ、 「雪になりましたわ」  細い声でそううながされるまで、それには気がつかなかった。  几《つくえ》から目をあげると、戸口に白い人影が座っていた。逆光になって表情はよく見えなかったが、おだやかに微笑んでいるのは声の調子でわかった。 「降ってきましたか」  筆を置いて、投げ出していた左足をかばいながら立ち上がる。 「どれ」 「あら、そちらへお持ちいたします」  おだやかな声が制するのを、逆に手ぶりで制して、 「雪を見たいのですよ」  戸口に立つと、白い顔がふわりと彼を振り仰いだ。 「淑夜《しゅくや》さま」  白い花のようだった。決して派手ではないが、美しい清楚な花。春の草原の間にまっ先に咲きはじめる小さな花のような婦人だった。 「すみません、揺珠《ようしゅ》どの」  白い手から上着をうけ取った。薄いが手に触れた部分がもうあたたかい。くず繭《まゆ》を集めてほぐし薄くのばした真綿を、表地と裏地の間にはさんであるのだ。ぜいたくといえばぜいたくな品物だが、さらにぜいたくなのはこの袍《ほう》が揺珠が手ずから、糸を紡ぎ染め布を織り、縫い上げたという代物だということだ。  すでに滅んでしまったが、〈魁《かい》〉という国があった。揺珠はその〈魁〉の最後の王の一族だった。正確には王太孫の妃だった。本来なら、淑夜は会うことすら許されない存在である。彼女は政略で物心もつかないうちから他国に嫁ぎ、寡婦《かふ》になり、王家が滅亡してようやく故国にもどってきた。もどってきた時、まだ十代の、少女といってよい年頃だったのが、彼女の運命の過酷さを物語っている。その故国はやがてこの大地の覇者となったが、戦乱の中で実家も親族も皆失った。それでも彼女は微笑を絶やさない。〈魁〉の王族としてこの国で丁重に遇されているせいもあるが、もっとも大きな理由は彼……淑夜にある。  新たな覇者となった〈琅《ろう》〉の、新たな国づくりの実質的な中心であり、戦の場では謀士《ぼうし》として文字通り縦横無尽に駆け回った耿《こう》淑夜は、今、揺珠と婚約中の身だ。お互い、天涯孤独ということも、ふたりの心を近づける要因のひとつだろう。身分や立場のわりに苦労の多かった生い立ちが、おだやかに互いを思いやる性格を育てた。  自分が揺珠という婦人の一生を引き受けられるほど大きな漢《おとこ》かどうか、正直、今でも淑夜は自信がない。だが、それを口にしてみたところで、仕方がないことも知っている。下手に他人に相談すると、人づてに聞きつけて、今は南方の〈衛《えい》〉の王となっている段大牙《だんたいが》あたりが怒鳴りこんでくるにちがいない。いや、まずこの〈琅〉の帝となった赫羅旋《かくらせん》から、叱責をうけるだろう。 「おまえがそんなことでどうする。いらん心配なんぞするな。だいたい揺珠どのは、おまえに頼り切って生きるつもりなどないぞ。あの方は、自分の足でしっかりと歩いていける。それを一番よく知っているのはおまえだろうが。ぼやぼやしていると、おまえが揺珠どのに面倒をみられることになるぞ」  帝という新たな、王よりも高い場所に位置づけた位にあるにもかかわらず、昔、無頼だったそのころのままの乱暴な口調でまくしたてられるのがわかっているから、淑夜はだまって背筋を伸ばし、揺珠とともに生きていく決心をしたのだった。 「ああ、本格的に降ってきましたね」  今年初めての雪だというのに、戸の外は真っ白になっていた。まだ地面はまばらだが、空もこの中庭から見える建物の屋根も、すでに白一色になっている。 「〈琅〉は冬が早いですから」 「ええ、冬は寒く夏は暑い。でも、ここが好きでした」  淑夜が過去形でいったのは、来年にも遷都をする予定になっているからだ。もとの〈征《せい》〉の領地内に建設されていた「新都《しんと》」は、規模も大きく、戦略上でも利点が多い。かつての敵地ではあるが、新しい国づくりの構想に合致すこともあって、都を移すことにしたのだ。もともと〈琅〉の都の安邑《あんゆう》は国全体としては西に位置しすぎており、なにかと不便だし、気候も人には厳しすぎる。ために当初は〈魁〉の旧都である義京《ぎきょう》に本拠を置いていたのだが、どうもここも人を集め機能させる都としては手狭すぎるということになった。なにより、崩壊していった〈魁〉の旧体制の記憶が強く染みついている。そこで協議をした結果、未完成ではあるが新都へ遷《かえ》ることにした。  もちろん反対もあったし、いずれは新都へ移るにしても今は時期早尚という声もあった。それを、押し切ったのは帝として全権を握った羅旋だった。 「どうせ遷るなら、早い方がいい。未完成の方が、造ってしまってから直すよりいい。〈征〉が口を出せないうちに、さっさとのっとってしまおう」  と、とても人の上に立つ者とは思えないようなことをいって、決めてしまった。  おかげで事務をとりしきる淑夜は、激務になった。  戦場では一騎当千の強者であり、戦術戦略にかけては戦巧者な者は多いが、緻密に計画をたて効率よく輸送し物資を管理し、といった地味な仕事ができるのは、淑夜の他には徐夫余ぐらいのもので、その徐夫余はといえば段大牙の補佐役として〈衛〉にとどまっている。  さいわい、義京にもどってきた尤《ゆう》家の女当主の暁華が非公式に手を貸してくれることになり、義京と新都の方の管理を任せられたため、淑夜は安邑の方の整理のために西へ引き上げたのだ。  本来なら、早々に新都へ遷《うつ》るべき揺珠も、みずから安邑へ戻るといいだしたが、それについては誰も反対しなかった。そういうわけで、ふたりは安邑のもとの国主の邸《やしき》に暮らしているのだった。 「淑夜さまが一番お好きな土地は、どちらですの?」 「え?」 「淑夜さまは、いろんな場所を見てきておいででしょう。どちらが、一番お気に召しましたの?」 「そうですね、いろんな場所へいきましたね。中原の〈魁〉、北の〈奎《けい》〉、そしてこの〈琅〉……。でも、それぞれにいいところはあるわけですし、順番はつけられませんよ」 「〈衛〉はいかがですの?」  故国の名を出されて、ほんのわずか淑夜はためらった。 「なつかしくはありませんか。美しいところだと聞いています。暖かくて、春はいろんな花が次々咲いて……」 「花ですか」  そうつぶやいて天を見上げた時の淑夜の目に映っていたのは、雪ではなく、白い花だった。故国の記憶の中にずっと舞っている、白い杏花《きょうか》の花片《はなびら》。天を埋め尽くす雪のような白い花の映像だった。記憶は、どちらかといえば苦い、みじめなものだった。いや、当時はみじめで、ひねりつぶしてしまいたいような記憶だった。思い出すたび、憎悪がこみあげてきた時期もあった。  だが、すべてが終わってしまい、関わった人々もまた去っていってしまった今となっては、懐かしさの方が先に立つようになった。 「〈衛〉の花の話を、聞かせてくださいまし」  淑夜があまり故国の話をしないことは、揺珠もよく知っている。彼がどんな想いで故国と関わってきたか、結果として故国をもいったん滅亡させたことを、小さなとげのように胸のうちにかかえこんでいることも知っている。彼女もまた、実際に淑夜とともに戦ったのだ。  だが、もうそろそろよいだろうと思ったのかもしれない。胸の中の傷も、身体の傷も同じだ。大事にくるんでおかなければならない時期もあれば、いつまでも抱えこんで、かえって膿《う》んでしまうこともある。どんな傷にしろ、そろそろ外気にさらす時期だと揺珠は思ったのだろう。また、その気づかいをわからない淑夜ではない。 「どんな花が咲きますの? 淑夜さまはどんな花がお好きでしたの?」 「そうですね……」  虚空をみつめながら、ひとつひとつ記憶をたぐりよせていく。 「白い花が好きでしたよ。子供のころは、花の木の下でよく書物を読んでいました……」      * 「なんだ、またここか」  頭の上から声がかかった。 「邸中、さがしまわった。こんな日ぐらい、家の中にいるかと思ったのに」  ふり仰いだ視界いっぱいに、白い花をつけた枝がひろがった。花の逆光の中に、人の上半身がうかびあがっていた。顔はよく見えないが、誰だかはすぐにわかった。この屋敷の中で、こんな風に淑夜に声をかけてくれる人物は、ひとりしかいない。 「花の下で読書とは、風流だな」  決して気取ってこんなところにいるわけではない。家の中には淑夜の居場所がないのだ。それに、昼間はともかく、夕刻になって薄暗くなってくると、家の中よりは外の方が明るい。灯《ひ》をひとつともすにしても遠慮をする淑夜にとって、誰にも見られず、文句も言われない外の方がずっと気楽なのだ。  もちろん、そんな事情は言った方も百も承知だ。口調があからさまに皮肉を含んでいる。もしかしたら、怒っていたのかもしれない。表情が見えない淑夜は、それをいいことに、気がついていないふりをした。 「いい匂いがするんです。暖かくなってきたし、気持ちがいいし」 「だからといって、こんな日まで読書している必要はなかろう」  と、手がのびてきて、淑夜の手の中の竹簡《ちくかん》を奪いとった。  竹を細く削り文字を書き細い革ひもでつづったものは、決して軽くはない。かさばるし、古いものは竹同士が擦《す》れて墨が消えかけていたり、読みにくいものもある。布を加工した巻物もあるにはあるが、貴重品で、読むためのものというより保存用で、簡単に屋外に持ち出して読むことなど許されるはずもない。  だいたい、庶民の家に書物などが常備されているわけもない。文字を読めること自体が、ひとにぎりの階級の特権であり技術なのだ。希少で高価な書物を大量に所蔵している家など、広い〈衛〉の国の中でも稀《まれ》だろう。  だが、 「でも、この書物は今日中に読んでしまわなければならないんです」  淑夜は少し困った風に笑った。 「莫迦《ばか》な。この家の子のおまえが、この家の書庫のものをいつ、どれほど読んでいたところで、かまうものか」 「家宰《かさい》の耿轍《こうてつ》どのが、書物の管理に厳しいのです。私のような子供にむずかしい書物は、まだ必要ないだろうと。それと、散逸しては困るというので、今日中に読み上げて返すのです」 「明日、また出してもらえばいいではないか」 「一度借りた書物は、二度と貸してもらえません」  うつむいて、淑夜は小声で答えた。  まだ子供、という家宰のことばは、ある意味では正しい。  淑夜は今年で十四歳になる。成人の式を挙げ、髪を子供の|※[#「Y」に似た字、第4水準2-1-6]頭《あとう》から、ひとつに束ねて髷《まげ》に結い、小さな冠をつけるようになって、まだひと月かふた月にしかならない。早い子供なら、十歳を過ぎれば加冠(成人)の式が話題になりはじめるのだが、淑夜の場合は、誰も言い出さなかった。遠縁の無影《むえい》が機会をとらえてうながさなかったら、誰も気がつかず、そのままになっていたのではないだろうか。  この点に関しては、もちろん気がつかなかった方も悪いが、何もいいださなかった淑夜にも責任があるとは無影も思っている。ただ、とにかく、家格にしては簡素なものだったにせよ、淑夜は正式に成人男子として認められ、「|※[#「火+軍」、第3水準1-87-51]《き》」という本名を名乗るようになった。なりはしたのだが、姿かたちが成人のものになったからといって、淑夜の引っ込み思案が変わるわけではなかった。  それでなくても、同年代の者たちにくらべて体格がけっしてよいとはいえない。すらりと上背のある無影と比較すれば、ひ弱な感じだ。顔だちはやさしく、幼さが残るのは仕方ないとして、感情をはっきりとおもてに出す方ではないこともあって、どうしても子供っぽい印象があるのだ。  その淑夜が大人でも難解な書物を読もうというのだから、家宰の渋い顔もわからないではない。  だが、理由はそれだけではないことを、無影はよく知っていた。 「二兄《にけい》だろう、またそんな無体をいうのは」  淑夜は返事をしなかったが、気弱そうに笑った顔が肯定していた。  淑夜はこの耿家の七男で、上には兄が六人いる。どの兄とも、淑夜は母親がちがう。そのせいか、実の兄たちとは同じ家の中に暮らしながら、交流はほとんどない。長兄、二兄たちとは親子ほど歳がちがうから、なおさらのことだ。  ところが、炳《へい》という名の二兄は何故か、ことあるごとに淑夜を目のかたきにする。ふだんは無視しているのだが、裏にまわると淑夜の邪魔をするのだ。いや、無影もそれとない嫌がらせはされている。  分家筋の無影が、本家の書庫の書物を借り出そうと頼んだところ、 「二の若さまがお読みになるので、貸すことはできぬ」  という、けんもほろろな返事だった。 「二兄がその本を読んでいる最中なのか」  確かめたところ、 「いや、別に……」  と、さすがに言葉をにごした。  読んでいるはずがない。無影が知るかぎりだから、二兄の子供時代のことは知らないが、彼が書物を読んでいるところなど見たことがない。いや、書庫のある棟に足踏みしたことすらないのではないか。  無影が「ならば……」と追求すると、 「いつお読みになるかわからぬ。だから貸せぬ」  ときた。  一日中、取り巻きを集めてなにやら遊びほうけている二兄が、どんな気まぐれを起こしたとしても、文字を読もうなどという気を起こす可能性だけは皆無だ。ただ、無影のような分家筋の青二才が、自分よりも学問ができるのが癪《しゃく》にさわっているだけだ。あからさまな、家宰の見下すような視線に、そこまでを読みとって無影は書物の借り出しを断念したのだ。  ただ、無影は分家筋の、それも末の方だし父の官職もほとんどないに等しい。食べるに困るようなことはないにしても、裕福とはとてもいえない家だから、下手に持ち出させてこっそり売り払われでもしたら、家宰の責任も問われる。だから断っても、一応、道理が通っているのだが、淑夜は七男とはいえこの家の子だ。学問をしたいというのも、忌避すべきことではない。だから、読みたいといえば書庫から出して来ざるを得ない。  一日かぎりの読書というのは、嫌がらせにしてもかなり姑息《こそく》な手段だ。だから、無影は声をはげまして、 「なにを気にすることがある。二兄が読書などするものか。読みたければ、いつ、何度でも読めばいいのだ」  わざと強気にいうと、淑夜はうつむいて竹簡を巻き取りながら、 「いいんです。読めば憶《おぼ》えますから」 「憶えるといって……」 「一度読めば十分です。二度と読む必要はないんです」 「おまえ、これを全部憶えているというのか」 「はい」  何故、こんなことを訊かれるのだろうという風な、無邪気な表情だった。 「一字一句?」 「はい」 「この巻の出だしを言えるか」  と、淑夜が巻き終わった竹簡をとりあげ、見せないように開いた。淑夜は思い出すような仕草も見せず、よどむこともなく、すぐにすらすらと暗唱しはじめた。たしかに、まちがいはないし、どこまでも暗唱は続いていく。軽く片手をあげて、無影は淑夜を止めた。  淑夜はいったん口を閉じると、ふたたびしずかに開いた。 「だから、かまわないんです。一日で返せば、すぐに次の書物を貸してもらえますし」  無影をふりあおいでにこりと笑った顔に、白い花片が一枚、はらはらと落ちてきた。  その風景ののどかさに、一度は激昂した無影の感情もゆっくりと冷めていく。 「おまえという奴は」 「いいんです。私は書物が読めれば、それで十分なんです」  ふたたび、笑っていった。 「行きましょうか、無影」 「え?」 「招かれているのでしょう。四兄の婚礼に」 「ああ」 「そろそろ、宴がはじまります。私もこれを書庫に返しにいきます。さ、行きましょう」  淑夜が立ち上がる。少し身をひいて、無影は彼が身なりを整えるのを待った。その肩先にも、はらはらと杏《あんず》の白い花が香りながら降っていた。  婚礼は読んで字のごとく、黄昏《たそがれ》時にはじまる。礼といっても、お祭りさわぎではない。子供が成人し結婚するということは、親がそれだけ歳をとったということだから、浮かれ騒ぐことではないという理屈だ。娘を嫁に出す家の側では、特に祝うこともなくひっそりと娘を送り出す。とはいえ、嫁をとる方はやはり子孫繁栄のきっかけでもあるから、それなりに親族を集め酒肴《しゅこう》でもてなすのが通例だ。  耿家といえば、この〈衛〉では上卿《じょうきょう》の位にある、つまり国主《こくしゅ》に次いで国政に参与している大家である。その家の息子の婚礼だから、酒肴も上等のものがふんだんに用意され、国の名士のだれかれとなく招かれる。一国を動かすだけの人間たちであり、庶民の上にたつ男たちの集まりのはずなのだが、酒が入ると品性が吹っ飛ぶのは庶民と変わらない。ふだんは温厚で礼儀正しいといわれる者でも、目下の者には威張りちらしていることが多い。酒が回ると本性を出すのか尊大になる者同士だから、最初はなごやかに過ごしていても、徐々に席が乱れてくる。あちらこちらで、声高に議論をはじめる者もいた。  そんな中、無影は末席でひとり、苦い顔をしていた。  無影はまだ家督を継いだわけではないが、父が病弱で人前に出るのを嫌うために代理で出てきたのだ。とはいえ、末流のさらに代理の無影に与えられた席は、主客たちの集まる正庁《せいちょう》ではなく、少し離れた別間だった。  それはいい。耿家ほどともなると、親戚、血縁と名乗っている者の数も半端ではない。直接の血縁者でもないのに、同姓というだけで一門と名乗ってなにやかやと援助を求めてくる者もめずらしくない。無影の家は数代前に分家したもので、族譜にも明記されているから、親族として招かれる資格は十分にあるのだが、同格の家でも本家と問題を起こしていて声もかけられていない者は大勢いる。  末席でも招かれているだけましといえるのだが、無影にとっては満足とはほど遠かった。  原因のひとつは、別間からでものぞける主客たちの醜態であり、本来、主催者側であるはずの耿家の兄弟たちの傲慢な態度だった。花婿である四兄が浮かれているのはまだしも、長兄、二兄たちの態度は客あしらいなどというものではなかった。さらに無影を不機嫌にさせたのは、正庁の方にも別間にも淑夜の姿がないことだった。  子供時代なら当然で、実際、淑夜のふたりの弟はここに姿がない。十歳にも満たない彼らは母親とともに婦人用の奥棟で暮らしているから、宴席もそちらに用意されているのだ。だが、淑夜は早くに母を失い、早くから表の一角に部屋を与えられている。しかも、すでに加冠を終えたのだから、いくら若くてもこの席にいて当然だ。  だが、淑夜は竹簡を書庫に返すと、 「では」  といって、自室にひきとってしまった。  それがあまりにも自然で、淡々とした態度だったもので、無影も、 「宴席に出ないのか」  とは訊けなかった。  訊けば、淑夜のことだ、困った顔をして返答しないか、具合が悪いとかなんとか、見え透いた理由をつけてしまうに決まっている。淑夜を困らせても仕方がない。悪いのは彼ではないのだ。もっとも、それで引き下がってしまう淑夜にもどかしい思いをさせられている。だからなおさら、不愉快さがつのるのだ。  おそらく、苦虫をかみつぶしたような顔で酒を飲んでいたのだろう。同じ部屋に席を与えられた者の中には顔見知りもいたが、誰も話しかけてこようとはしなかった。  正庁の方の喧噪が耳にはいったのは、酒もかなりはいったころだった。無影は酒には強く、立ち上がってもほとんど酔いは感じられなかった。 「何事だ」  正庁の近くまで出ていって、この家の使用人にさりげなく訊いた。親族であり、始終出入りしている無影に、使用人も気を許している。 「二の若君が、お客さまと口論になっていらっしゃるんです。どちらも、かなり酔っておいでで、収拾がつきません」  ひそひそと声を落として、しかし、ありのままを教えてくれた。 「伯父上はなにをしておられる」 「もう、お部屋へ引きとられました」  人を招いての宴で、主催する家の主が早々にいなくなってしまうというのも失礼な話だ。だが、出席者のほとんどは耿家からみれば目下だから、とがめる者もいない。長兄、二兄の場合は同格の家の娘を妻に迎えたから、それなりの配慮も必要だったし、伯父自身も大喜びしていたから、宴席の準備もみずから指示を出していたという。だが、四度目、娘を嫁に出した数も加えれば九度目の婚礼ともなれば、厭きてきても仕方がないといったところだろう。  無影も、無責任な、と思ったものの、いちいちとがめる気もせず、踵をかえそうとした時だった。 「おお、無影ではないか」  千鳥足で出てきた二兄が、無影を見てしまった。 「ちょうどよい、探しに行こうと思っていたところだ」  嘘だ。本当に用事があれば、人を遣《や》ってつれてこさせればよいことだ。何度もくだらない用事で呼びつけられたことがあったが、この邸の中どころか、外出先にまでこの家の使用人がおしかけつきまとい、一緒に二兄の前へ出るまで離れなかった。無影にしてみれば迷惑きわまりない話だが、先方は気にも止めていないだろう。下手をすれば、自分の用事をさせてやったのだ、ぐらいのことを思っているにちがいない。腹はたつが、呆《あき》れることも多いのでなるべく関わらないよう、受け流すように心がけていたのだ。もちろん、それでも怒りがおさまらないことも多かったが。  ともあれ、こんな場で顔をつきあわせた状態でつかまってしまっては、家で居留守をつかうようなわけにもいかない。まして、その背後には宴席の客の顔がのぞいているのだから、なおのことだ。  なるべく感情が面と声音に出ないように気をつかいながら、 「何か?」  短く、無影は答えた。 「ちょっと、来い」 「ですから、何の用ですかとうかがっています。私の席はあちらで、賓客の方々の前に出るような身分ではありませんよ」  ちなみに、無影はまだ無位無冠の身だ。独力で官職に就こうと思えば出来ないわけではないのだが、父の体調次第では、早々に家督を譲って隠居という声もあった。父が隠居すれば、ひとり息子の無影が家督と微官ながらもその地位を継ぐことになる。たとえ自力で任官し出世していても、結局はもとの状態に押しもどされてしまうのであれば、無駄になる。  どんな微官からでも、無影は頭角をあらわす自信がある。だからこそ、遠回りはしたくなかった。だからこそ、いつまでも去就をはっきりとさせない父に内心で腹をたてていたのだが、今日のところは無位無冠の身もありがたいところがあると思っていたのだ。理由は単純、二兄たちの醜態に同席せずにすんでいたからだ。  だが、どうやらそんな理由ではこの場は逃れられそうにないようだった。 「身分、そんなものはかまわん。とにかく、ちょっとこっちへ入れ」  おぼつかない足どりで寄ってくると、酒くさい息をふきかけながら肩をつかまえようとしてきた。  無影はきれいな身のこなしでさりげなくかわすと、二兄より先に正庁に足をふみいれた。広い板敷きの正庁には、美しい布で縁取りをした筵《えん》がいくつものべられ、客がひとりひとり陣取っている。その前にはそれぞれ、膳が三つずつ据えられ、飯や肴、酒が饗されている。  本来、礼儀としては食事を先に出し、一同、食べ終わったところで酒をふるまうものなのだが、そこは祝いの席でもあり、かなり早いうちから酒が出されていた。一座に居並ぶのはこの国の上太夫たちばかりのはずだが、酒がはいると人間、本性が出るというのは本当らしい、と改めて無影は思った。  先ほどから聞こえていた喧噪は、正庁にはいるとさらに大きくなった。膝をそろえて座っていることができず、足を組んだり前へ投げ出したりしながら酒杯を運んでいる者までいる。さすがに踊り出す者はいないが、歌をがなっている者はいた。  その喧噪が、下座の方から徐々に低くなっていったのは、そこに立つ長身に気づいたからだ。衣服の色や形を見れば、その人物の地位や身分があらかたわかる。この席に本来、いるべき人間かどうかもわかる。そういう意味での白い目と、その闖入者《ちんにゅうしゃ》がまだ若く、すらりとした背丈と理知的な表情を持っていることへの、素直な感嘆と興味が入り交じった沈黙だった。  席には客ひとりに一台ずつ油燈が配置されている。良質の油をさした燈灯でも、油煙は相当にきついものがある。後ろから追ってきた二兄が咳き込んだのは、そのせいもあったのだろう。そのおかげで、二兄の用事というのがわかった。  もっとも上座に席をとっていた客が、その咳に気づいて酔眼をあげ、 「おお、しっぽを巻いて逃げ出したと思ったら、のこのこ戻ってきおったか、炳」  本名を呼ぶのは無礼だが、この場合、呼んだ相手が年上で目上なので、二兄はむっと表情をこわばらせただけだった。  なるほど、これが二兄の喧嘩相手か、と無影は思った。  この国の上太夫の中で、耿家とならぶ地位と権力を持つ梁《りょう》家の当主で、たしか名を昶《ちょう》とかいった。その地位から司馬《しば》どのと通称されている人物である。この国で最上の地位にあるのは、もちろん国主だが、よほどのことがないかぎり臣下が国主を私邸に招くなどということはないから、この宴席に呼べる客としては最高位の客だ。もっとも上座に陣取るのは当然、その接待にこの家の当主の家族が当たるのも当然。で、二兄が酒の相手をつとめるうちに、なにやら口論になったらしい。 「これ、そんなところにおらず、ここへ来い。そもそも、年長者に対して口答えとは……」  まったく、酔眼|朦朧《もうろう》、上体が少しゆらゆらと揺れているが、ただし口調がはっきりしているところをみると、それほど酔いはひどくないのかもしれない。年齢《とし》のころは四十代で、まだ髪も黒くなかなか落ち着いた容貌の漢が、左手をひらひらさせて二兄を呼んだ。二兄はしぶしぶ応じたが、歩み寄る時についでのように無影の袖口をつかみ、上座へ連れこみ、梁昶の前へどかりと座りこんだ。  念のためにいっておくと、二兄も三十代の半ばで、背も無影ほどではないが高く容姿も整っている。貫禄のある美丈夫と呼んでもおかしくはない。もちろん酒が入っていなければの話だが。  梁司馬は、ひきずってこられた無影にぼんやりとした目をむけた。 「この者は?」 「私の堂弟《どうてい》で、無影と申す。歳は若いが、博識でしてな」  雲行きがちがうな、と無影は皮肉っぽく思った。今までに二兄が無影を誉めたことなど、一度もない。一族外の人間がいる席では、なおのことだ。これは、なにか魂胆があってのことだな、と推測をつける間もなく、 「そうかそうか、そなた、おのれがかなわぬと見て、援軍を呼んだな」  梁司馬はせせら笑った。 「いくら呼んでも無駄じゃ。事実は変わらん。そもそも、こんな若造を連れてくる必要などない。そなたの家の書庫へ行って、書物を一巻ひもとけば簡単にかたがつくことではないか。そうするために席を立ったかと思うていたに、こんな無駄な手間をかけおって……」 「我が家の書庫は広うできておりますのでな」  二兄のせりふは必要以上に嫌みがこもっていた。 「しかもこの夜分。書庫に火の気を持ち込む危険は避けるのが当然。要するに、貴殿と私と、どちらの記憶が正しいかはっきりすればいいだけのこと」  ふたりがやりあっている間に、無影もぼんやり座ってはいなかった。一部始終を見ていた梁司馬の侍者《じしゃ》から、ことのあらましを聞き取った。  要するに、ある語句の中の一字の正誤で争っているのだという。 「こちらの二の殿は于《う》といわれ、わが殿はそこは千《せん》と書いてあったといい……」  どちらも自尊心が強く、自分の記憶力には自信があるから譲らない。また、周囲の者に加勢を求めると、それに異論をさしはさむ者があるといった具合。収拾しようと割ってはいった者もいたが、だれでも諭《さと》されると気恥ずかしいもので、「だいたい、おまえという奴は……」云々と、話題を脇道へ逸らして反撃をする。その結果、あっという間に正庁中にさまざまな諍《いさか》いがひろがってしまったのだという。  二兄は、 「確かめてくる」  と、席を立っていったというから、もしかしたら、本当に無影を探しに出てきたのかもしれない。だが、どちらにしても迷惑な話だと、無影は思った。 「無影、おまえならば知っていよう」  二兄は決着を急いでいた。  こういう書物のこのあたり、この語句のこの部分は于か千か。  侍者から聞いたことを、そのままほとんどそっくり二度目に聞かされる羽目になった。  問題の書物は、通読したことがある。ただ、たいして重要な部分ではなかったので、その箇所はよく憶えていない。語句の意味から考えれば、梁司馬の主張する「于」の方が正しいと思われる。しかし、はっきりとそれを口にしてしまえば、二兄の面目は丸つぶれになるだろう。べつに二兄が大恥をかこうが無影の知ったことではないが、後で荒れ狂うのは目に見えている。だからといって、耿家と並ぶ権力を持つ梁家の当主を敵にまわすのは得策ではない。 「しかし……書物には異本というものもあります。書き写す際に間違うこともあります。原本にあたらないかぎり、どちらが正しいとは……」  ことを丸くおさめようと、無影がいうと、 「それは百も承知しておる」  と、梁司馬が片手を上げて、さえぎった。 「だから、この家の本にあたれと申しておるのじゃ。この家にも問題の書物は所蔵されているはず、それに『千』と書いてあるのだとしたら、もともとが誤っておろうが正しかろうが、炳は正しい。きちんとその書物を精読しているという証拠でもある。たとえ原典と異なっておろうと、それは炳の罪ではない。儂《わし》が問題にしておるのは、炳がその書物を一度でも手にとったことがあるのかどうかということじゃ」  なるほど、酔ってはいるが理屈は通っている。 「お言葉はごもっともです。ですが、この時刻に火の気を持って書庫に入るとなりますと、何が起きるかわかりません。この一件のために万巻の書物が灰になる危険は、冒せません。検証するのは明日、ということになさってはいかがでしょうか」 「それは、そなたの堂兄《どうけい》どのに申すがよい。儂は明日にせよと何度も申しておる」 「二兄」  許可を求める無影の呼びかけに、二兄はそっぽをむいた。 「我が家の宴席だぞ」  それだけを答えた。  つまりは、正誤はとにかく、自分の家であるからには自分の主張が正しいことにしろと言いたいらしい。  無影は、考えこんだ。  もちろん、二兄の顔をたててやる気はない。できれば、つぶしてやりたいぐらいだ。できたら、その後のとばっちりが自分にこないように仕組めるものなら、是非。  梁司馬の方には逃げ道が残されている。異本があるのは、誰もが承知していることだ。たとえ、この家の書物が問題の箇所を「千」と書いてあったとしても、手で書き写していくかぎりは間違いもあるし、梁司馬が読んだ書物には「于」と間違って記載されていたのだと主張すれば、彼の非にはならない。  もうひとつ、無影が着目したのは梁司馬の権力だ。  この件で梁司馬の気にいられれば、耿家に匹敵する後ろ盾を手に入れられる。  世の中に出ていくには、実力ももちろんのことだが、権力者の力をたくみに利用する必要があると、無影は知っている。  考えてみるがいい。この耿家にあって、才能も人柄も話にならない二兄が大きな顔をしてのさばり、少なくとも才能のある淑夜が公の席にも出られないでいるのは、淑夜が強力な後ろ盾を持っていないことが大きい。  二兄の母親の実家は、耿家、梁家につぐ権力を持つ家柄である。父親の意にそわないことがあったとしても、大勢いる母方の親族のとりなしや介入でうやむやになったり、必要以上に引き立てられたりしている。二兄の正妻も名家の出身だから、こちらからの援助もある。  淑夜の母は、耿家の当主の何番目かの側室だった。なんでも、清楚な美女にひと目惚れした伯父が、年齢の差どころか家格や貧富の差をものともせず……逆にいえば先方が貧しいのにつけこみ金銭と権力ずくで夫人のひとりにしたのだという。淑夜が生まれてまもなく亡くなったから、無影も面立ちはよく憶えていないが、どことなく影の薄い人だったという印象は残っている。その影の薄さというのは、つまるところ実家に勢力があるかないか、もっと極論をいってしまえば金銭《かね》を持っているかどうかなのだと理解するのは、そう難しいことではなかった。  だが、後ろ盾はなにも、母方でなければならないという決まりはない。たとえば、この目の前の梁司馬に気に入られれば、耿家の者ではあっても淑夜に出世の道は開けるかもしれない。 (やってみる価値はある……)  無影は腹の底でひとつうなずいた。 「では、二兄。私より淑夜にお訊きになった方がよい」 「なに、淑夜?」 「はい、あれなら、先日、件《くだん》の書物を読んでいましたし、憶えているはず」 「淑夜とは、誰じゃ」  とは、梁司馬。 「……私の、弟のひとりです」  と、二兄もしぶしぶ答える。 「憶えておるのか、その者」 「はい、確かに」 「どこにおるのじゃ」 「この席にはおりません。自室にいるはずですが」 「では、呼んでまいれ。そもそも耿家の子であれば、何故、この席におらぬ。さ、早う早う、呼んでまいれ」  梁司馬は、まんまと無影の思惑にのった。こうなっては二兄も、「では」とおもむろに立ち上がる無影を止められない。  無影はさっさと正庁を抜け出ると、よく知っている邸内を早足で進んだ。淑夜の部屋は邸内でも裏の裏手にある。中院《なかにわ》を少し先へ行けば、婦人たちの住まう奥棟に出る。部屋自体も北向きで寒い上に狭いが、淑夜は書物さえ読めればいいらしく、住まいについて文句をいったためしがなかった。  夜分、しかも宴があるということで、いつもは暗い中院にもかがり火が焚《た》いてあった。婦人たちの奥棟の院にも、またそこに通じる回廊にも、多少控えめではあるがあかりが灯されているのが見えた。何気なく、院の木々の間を透かして奥棟へ続く回廊を見やった無影は、そこではたと足を止めた。  回廊を婦人たちが笑いさざめきながら、ゆっくりと歩いていく。親戚の女たちが、新婦に祝いを述べにやってきたのだろう。いずれもきらびやかに着飾った一団の最後に、少し遅れてついていく少女がいた。豊かな髪を二つにわけて両耳の上でふっさりと結った、まだ童形《どうぎょう》ながら、遠目でもその目鼻立ちの美しさはきわだっていた。  無影は、その少女の姿が回廊の奥へ消えるまで、じっと息を詰めて見送っていたが、やがて声も聞こえなくなるとほっと息を吐き、気を取り直した風に頭を振った。  淑夜の部屋は真っ暗だった。  すでに寝《やす》んでいるのかと思いきや、本人は廊下へ出てじっと座りこんでいた。 「淑夜」  声をかけると、静かにふりむいた。 「ああ、無影」  実は無影が回廊の向こうを見ているところから、存在には気がついていたのだが、今、気がついたといった風を装った。なにか、触れてはいけないものを見たような気がしたからだ。 「何をしている」 「音楽を聴いていました」 「こんなところで、か」 「人がいない方が、聴きやすいですよ」  本音だった。人前に出るのが好きではないのは本当だし、たしかに乱れた酒席で間近に聴くより、ここの方がよほどよく聞こえるのだ。  無影は、すまなさそうな顔をしたが、 「悪いが、正庁まできてくれ」  理由はいわずに、それだけを告げた。淑夜も、何も訊かずにおとなしくついていった。  正庁の末席に淑夜が姿を現すと、一座の視線がいっせいにつきささった。なんだ、子供ではないか、という冷笑にも近い空気が流れた。実際、淑夜は形こそ大人だが、まだ顔つきといい身体といい痩せて頼りなげな子供でしかなかった。ただ、見る者が見れば、場慣れこそしていないものの、おどおどとした気配もないのがわかっただろう。 「そこでは話ができぬ。ここへ来い」  梁司馬にさし招かれて、まっすぐに正面に進みでた。無影が心配するほど、自然で素直な態度だった。梁司馬はしばらくの間、淑夜の姿をながめまわしていたが、 「名はなんと申す」  おもむろに訊ねた。 「|※[#「火+軍」、第3水準1-87-51]《き》と申します。字《あざな》は淑夜と申します」 「呼ばれた理由は聞いておるか」 「いえ、存じません」  梁司馬の侍者が、三度、いきさつを説明した。 「で、そなたなら確かなことを知っているはずだと、申すのじゃ。さて、どちらかな」  説明の中から、どちらが「于」といいどちらが「千」と主張しているかの部分が抜け落ちていたことに、無影は気がついた。淑夜が二兄に肩入れしないよう、公平にという配慮だったのかもしれない。少なくとも、二兄もそれには気がついていたはずだが、特につけくわえるようなことはしなかった。それどころか、まるで不快なものといわんばかりに、淑夜の方を見ないようにしていた。  淑夜は、その場の雰囲気やかけひきはほとんど読めていなかった。そういうものが必要だとも思わなかった。事実は事実なのだ。だから、 「その部分は『于』です」  さらりと即答した。  二兄がはじかれたようにふりむいた。顔色がさっと青ざめ、すぐに真っ赤になった。  一瞬の沈黙の後に哄笑が起きたのは、もちろん梁司馬の口からだ。 「よくぞ申した。炳、そなたの弟が申したことだぞ。負けを認めるな」 「……確かなのか」  二兄は、あきらめきれなかったのか、念をおした。 「他の語句と間違えているということはないか」  淑夜は直接こたえず、問題の点の少し前からすらすらと暗唱をはじめた。 「もう一度、同じところを申してみよ」  何度繰り返させられても、同じだった。 「これで、一応の決着はついたと思いますが」  たまりかねて、無影が口を出した。 「何度繰り返しても同じことでしょう。それでも納得できないというなら、明日、あらためて書庫で調べてみればよいこと」  勝利をおさめた梁司馬が、それに賛成した。  どうなるかと一時は息をつめて注目していた客たちも、厭きがきたのか急速に興味を失い、話す者は話す、飲む者は飲むことにもどっていた。二兄も多少は頭が冷えたのか、これ以上席を騒がせることはできないと悟ったか、梁司馬にもしぶしぶ頭を下げてこの場をおさめたのだった。  もちろん、梁司馬は上機嫌で、 「そうか、|※[#「火+軍」、第3水準1-87-51]《き》と申すのだな。七弟か、よく憶えているものだな。書物は好きか、よしよし、褒美《ほうび》をやろう。機会を見てまた、話を聞きたい……」  淑夜を誉めあげた。ただ、誉められた本人はといえば、この場に呼ばれた用事がすべて済んだと見たのか、得意げな顔をみせるでもなく、礼を失しない程度に淡々と応対するだけだった。適当なところで、気をきかせた梁司馬の侍者が褒美と称して、佩玉《はいぎょく》を盆に乗せてさしだしてきた。細工はさほどでもないが、とろけるような翠《みどり》色をしているのを見れば、質のよさはだれの目にもわかっただろう。 「〈琅〉の産でございます。どうぞ、お納めを」 「ありがとうございます。謹んで」  淑夜は、これも物怖じすることなくさらりと受け取って退席していった。  一時、大きくなったざわめきは、淑夜の姿が消えると同時に何事もなかったかのように別種の喧噪にとってかわっていった。  無影が期待をかけていたのは、梁司馬の、政治的な感覚と手腕だったのだろう。  なにも本気で淑夜を気にいってもらおうと思ったわけではない。ただ、淑夜が耿家の中で冷遇されていることを見てとってくれればいい、と思ったのだ。  なにかと目をかければ、それだけ淑夜の心を実家から引き離して味方につけられる。なにも、引き取って世話をしろといっているのではない。ただ、心情的に梁家側の人間を耿家の中にひとり置いておくだけで、いざという時にどれだけの情報が得られるか。  しかし、一件の後、梁司馬からの連絡はなかった。司馬本人が相当に酔っていたから、記憶がなかったのかもしれない。それは、ある程度、無影も覚悟していた。だが、誠実そうに見え、実際、なにくれとなく世話になった侍者が口を添えてくれるのではないかと期待していたのだ。  だが、結果として、宴席の余韻が去り杏の花もすべて散り、日差しに夏の色彩が混じりはじめても、淑夜の身辺にはなにも変化がなかった。  淑夜の身辺はあいかわらずひっそりと静かで、書庫から一巻ずつ書物を借り出しては日のあるうちは戸外で読んでいた。南方の〈衛〉の日ざしはかなり強いのだが、木陰に入れば、下手に室内にとじこもっているよりも風が通って涼しいのだ。  無影が心配していた二兄の報復もなかった。二兄も酒にまぎれて忘れてしまったのかもしれない、と、ひそかに無影は胸をなでおろしていたらしい。 「家に閉じこもっていては、身体に悪い」  と、無影が淑夜を郊外に連れ出したのは、事件があってからそろそろふた月近く経とうとしている頃だった。 「読書もけっこう、文字を憶えるのもけっこうだが、花を見て花とわからなければ意味がない」  たしかに淑夜は花の名はいくつも知っているが、それと実物の花とはなかなか一致しないという傾向があった。邸の中では野草など見る機会が少ないのだから無理もないが、 「たとえば薬の調合の仕方は知っていても、目の前の草が薬草か毒草か、知らなければなにもならない。野歩きをして学べることも多いはずだ」  がらにもない説教をして、郊外へ連れていった。最初こそ不満そうだった淑夜だったが、素直に後についていった。外へ出てみれば、それなりに解放感もあった。 「たまには、外に出た方がいい。閉じこもってばかりでは、病気になる」  今のところ、淑夜は大きな病気も怪我もしたことがない。ただ、母親が早く亡くなっていることを考えれば、それほど頑健というわけでもないだろう。それを心配してそういってくれたのだろうが、 「無影の方はどうなんですか」  おっとりとした口調でききかえした。 「おまえよりは、ましだと思っている」 「なにか、鍛えてるんですか」 「弓も剣も、ひととおり使える」 「武人になるつもりですか」 「そんなものになる気はない。ただ……」 「なんですか?」 「一軍を動かす将ぐらいになら、なってもいいと思っている」  淑夜は、それには反応しなかった。感想を無影は期待していたのだろうが、ついに淑夜は口を開かなかった。その暇もなかった。その前に、周囲の異変に無影が気がついたからだ。  ふたりが散策していたのは、疎林の端をめぐる道だった。天候はいいものの、あまり人の往来の多い場所とはいえない。その道の前方から、十人ちかくの男たちがのし歩いて来ただけでも不自然だった。  目的が自分たちだというのは、直感だった。  誰が、何のために、ということは、 「淑夜、逃げろ」  うながされてから、考えた。  二兄のさしがねだ。でも、何故、今ごろ。もちろん、梁司馬の出方をうかがっていたのだ。梁司馬が淑夜に目をかけて何度か接触していたなら、二兄も手出しは控えただろう。正面きって梁司馬を敵にまわしても、得をすることはなにひとつない。だが、梁司馬はどうも、淑夜の一件を忘れているようだ。もしかしたら、二兄はなにかの方法で梁司馬の記憶を確かめたのかもしれない。ちょっとした会話の端々からでも、簡単にわかることだ。そうと確認がとれたから、報復に出てきたのだろう。  淑夜はいわれたとおり、踵《きびす》をかえした。  ただ、一目散にまっすぐ逃げるようなことはしなかった。  周囲のようすをよく見極めた上で、見晴らしのよい土手の上に生えている果樹の並木めがけて走ると、その一本によじ登ったのだ。 「おい、淑夜」  背後からかかった無影の声の調子からは、彼が怒っていることがすぐにわかった。それはそうだ。せっかく自分が盾になって男たちを食い止めている間に淑夜を逃がそうと思っていたのに、淑夜はわざわざ追いつめられるような場所へ登ってしまったのだから。  だが、淑夜のあとを追って木の下まで走ってきた無影は、すぐに「なるほど」という顔をした。淑夜の後を追って木に登ろうとすれば、両手が必要になる。幹に抱きついている奴なら、襟首をつかんで引きはがすことも容易だ。それに、多勢を相手にする場合、なにもない広い場所より、木の幹を背にとった方が後ろを気にせずに戦える。 「淑夜、落ちるなよ」  なお上の枝に手を伸ばす淑夜にむかってそういうと、無影は追ってくる男たちに向き直った。  おそらく、二兄もそれなりに屈強な人間を選んだつもりだったのだろう。ただし、二兄が直接、人物を見込んで頼んだとは考えにくい。家宰か取り巻きのだれかに命じたのだろうし、その連中にしても金銭の上前をはねて誰かに任せた方が楽だ。そうやって丸投げをくりかえしていけばそのたびに金銭は減っていき、雇える人数や資質も落ちるという道理だ。 「だから、人の上に立つ器じゃないといってるんだ」  と、無影が低く吐き捨てたところをみると、無影も同じことを考えていたらしい。  少なくとも無影が鍛えていたのは、弓の腕だけではなかったらしい、ということは上から見ていてもよくわかった。  文弱のふたりとなめてかかっていたのか、相手が武器らしいものを持っていなかったのも幸いした。ただ力任せに殴るのと、急所をよく見極めて一点に集中するのとでは、効果からして違う。またたくうちに、数人が殴られ、膝を蹴られてころがった。おそらく、膝頭の骨にひびぐらいははいっていたのではないか。  淑夜もまた、ただ黙って見ていたわけではない。  上の枝に手を伸ばしたのは、逃げるためではなく、実っている青い果実を数個、もぐためだった。まだ熟していない杏の実は小さいもののそれなりに堅いから、上から投げれば相当な威力がある。事実、無影の手をかいくぐって登ってきた男は、無防備な頭に直撃をうけて反射的にふり仰いだ。その顔面に、さらに杏の実がみまう。それがうまく眉間に当たった。「あっ」と悲鳴をあげて手をすべらしたところを、気がついた無影に足を引っ張られ、落ちたところで腹を思い切り踏みつけられて気を失ったようだ。  さらに、淑夜は足がかりをさがし、手をのばした。 「おい、淑夜、無理に登るな。枝が折れたらどうする」  下で無影が叫ぶのを無視して身体をひきあげる。その分、視界が広くなり、遠くまで見渡せる。さらに枝の上につま先だった。 「危ないといったら……」  無影が怒鳴った時には、手を振って大声をはりあげていた。一瞬、無影も、男たちもあっけにとられたようだが、淑夜は声を出し続けた。 「淑夜、何をしている!」  無影の位置からはまだ見えなかったが、淑夜の高さからは、土手の向こうからこちらへ向かってくる車の一行が見えていた。それにむけて、淑夜は声をあげ手を振り続けた。  一行の動きは、最初のうちは鈍かった。だが、少し近づいたところで、木の下の異変に気づいたのだろう。一団から警護の者らしい男たちが数人、ばらばらと走り出してきた。逆に、その頃には木の下の男たちも近づく第三者が目に入り、淑夜の声の意味も理解して、 「まずい、人が来る、ひきあげろ」  傷つき気絶した仲間をひき起こし、あるいはひきずって一目散に逃げ出してしまった。 「ご無事ですか」  と、加勢がかけつけた時にはもう、無影は乱れた衣服を直し、淑夜も幹から降りてきていた。 「おお、耿家の……」 「|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》家の方々ではないか」  顔を見合わせてみれば、旧知の間だった。|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》家は耿家の縁戚にあたり、互いに行き来もある。先日の婚礼にも、何人も出席していてくれたはずだ。そして、無影は耿家の宗家にも、その縁戚の使用人にも顔がきく。淑夜はおとなしい分、あまりその存在は知られていなかったが、|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》家の人たちとは幸い、何人かと面識があった。 「夫人方の遠出のお供に従ってまいりましたところで……。なにはともあれ、ご無事でよろしゅうございました。お怪我はございませんか。いったい何者でしたのでしょう。あのような無法がまかりとおるとは……」  数人が口々に興奮した口調で勝手に話すのを、無影はひとつひとつさばいていった。 「お楽しみのところを申し訳ありません。はい、無事です……。何故だか、よくわかりません……。いえ、まったく知らない顔で。物盗《ものと》りのたぐいかもしれません……」  嘘はいっていない。根拠がない以上、だれかに狙われたと主張しても無駄なことは、淑夜も十分承知していたから、無影の隣でだまっていちいちうなずいていた。 「とにかく、ご無事でなにより。我らは|※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1-90-88]《しん》家の夫人方の野遊びにお供した帰りで。通りかかって、運がよかった」  なるほど、五台ほどの車はみな、壁と屋根があり人目から乗っている人々を隠すようになっている。車の中からは、細いくすくす笑いも漏れ出ている。 「まったく、皆さんのおかげで……」  ひと通りの礼を述べ、また先頭の車に近寄ると無影は、 「おかげをもちまして、危ないところを救っていただきました。また、あらためてお邸まで礼にあがらせていただきます」  その声に応えたのは、年配の婦人の声だった。 「また、怪しげな者が現れてはいけません。我らとともに、城内へおいでなさいまし」 「はい、ねがってもないことです」  車の窓がひきあけられていた。そこから、品のいい年配の婦人の顔がのぞいていた。窓が閉められる寸前、おだやかな婦人の笑顔のむこうに、少女の白い顔がちらりと見えたような気がした。一瞬のことで、淑夜には「気がした」だけだった。  そのまま、無影は何もいわなかったし、邸へ戻るまで何事も起きなかった。邸に戻ってからも、また、何日経っても何事も起きなかった。  もう、なにも起きないのかと、淑夜も思っていた。楽観していたわけではないが、無影も警戒をときはじめていた。なにより、腕っぷしでも二兄の予想を裏切ってやったという事実が、無影の気をよくしていたのだろう。  それでも、しばらくの間は淑夜のようすを見に来ていたが、やがて季節が夏になり秋風がたつようになっても何事もないとわかると、次第に間遠になっていった。無影には無影自身の用事もあったから、淑夜も気にすることもなく、書庫の書物の山に没頭していった。 「二兄はおいでか」  激しく争う声が表から流れてきて、淑夜は顔をあげた。  さすがに外での読書もはばかられるようになった、晩秋の夕刻のことだった。自室で灯火をつけようかどうかと迷っていた淑夜は、それが無影の声と気がついてあわてて声のする方へ急いだ。 「二兄を出せ、二兄の仕業だろう、卑怯者《ひきょうもの》。逃げ隠れせず、堂々と出てきて、俺と話をしろ。おい、離せ、離せといったら」 「無影」  淑夜が見たのは、家宰や使用人数人ともみあう無影の姿だった。いつも冷静な無影が目を血走らせ、衣服が乱れるのもかまわず争い叫んでいる。 「若君はおいでになりません。ご用があるなら、日をあらためて……」  家宰が叫んでいるが、頭に血が上っているのか、耳にはいっているようすはない。  淑夜は自分でも不思議なぐらい静かに、彼らの前に立っていた。 「無影」 「淑夜、通せ。ここを通してくれ。二兄に……」 「二兄はほんとうに不在です。一昨日から出かけていて、帰ってきていません」 「どこへいった」 「知りません」  淑夜の冷静さが、無影にも伝染したのだろうか。争う力がゆるんだ。 「ほんとうか」 「今、二兄がここにいないのは確かです。とにかく、私の部屋へ。何があったか、聞かせてくれませんか」 「……手を離せ」  家宰たちは、一瞬、迷ったように淑夜を見た。淑夜は、静かにうなずいてみせた。  それに安心したのか、それともなにかあったら淑夜の責任にできると判断したのか、彼らはしぶしぶ手を離した。そのまま、無影は淑夜のあとについてきた。  北向きの、狭い、よく知った部屋であらためて向き合うと、無影はしばらく顔をそむけ頭をかかえていた。激昂したことを恥じていたのかもしれないが、淑夜は敢えて何も訊かず、じっと無影が落ち着くのを待っていた。 「二兄が何かしましたか」  やがて、ため息を大きくついて無影が頭を上げるのを見て、淑夜は声をなるべく落として訊ねた。 「……親父の職場で、金銭が紛失した」  突然、脈絡のないような話が無影の口から飛び出したが、淑夜は急がなかった。 「……大金だった。そんな金銭、あったはずがない。金銭を扱うような役所じゃない。なのに、あったことになっていて、だれかが盗《と》っていったことになった。ただ、盗った奴の罪は問わない、罪人を出すのは忍びない。連帯責任で、皆で弁償するならなかったことにしてやると……」  ほんとうにそんな金銭があってそれが盗難に遭ったのなら、そんな処理の仕方は違法だ。国庫の金銭は、つじつまがあっていればいいというものではないはずだ。あきらかに、作為が感じられる一件だった。 「もちろん、二兄の名はどこからも出てこない。だが……」  半年前の一件が尾をひいていると、無影は直感した。その小さな部署の長は無影の父であり、当然、彼の弁償額が一番多い。それほど裕福ではない無影の家にとって、その額は大きな打撃だった。しかも、連帯責任をとらされる部下はもっと貧しい者が大半だ。弁償できるあてもない。彼らがもしも金銭を用意できなければ、その分も無影の父の負担になる。  もしも金銭を用意できなければ、無影の父は責任をとって職を辞すしかない。もともと、いつ辞めてもおかしくない病身だが、今、不祥事の責任をとって辞職すれば無影に譲ることはできなくなる。それどころか、罪人の子となれば無影も出仕の途《みち》を閉ざされるのは確実だ。  もちろん、ひそかな野心を持つ無影にとって大きな蹉跌《さてつ》になる。それ以上に、無影にとってつらいことは、父が衝撃で寝込んでしまったことだった。 「……それで、その金銭はどれぐらい?」  無影が口にしたのは、たしかに大金だった。淑夜にいっても無駄だと思ったのだろうか、投げつけるような口調だった。 「その金銭があれば、すべてが解決するのでしょうか」 「ああ。だが、そんな金銭、どこに……」  自棄《やけ》気味に叫ぼうとした無影は、淑夜を見て一瞬、目を丸くしたにちがいない。  淑夜は無言で立ち上がって、燭台を軽く持ち上げていた。その丸い台の底を探ると、すぐにからりと音をたてて翠色の物が床の上にころげだした。 「これは……」 「先日、梁司馬からいただいた佩玉です。うまく売れば、その額にはならなくとも、足しにはなると思います」 「……これを、くれるというのか」 「お役にたつでしょうか」 「……しかし。これは、おまえがもらった……」 「使わないから、いりません」  佩玉は腰帯に下げる男子の服装の要《かなめ》となる飾りで、盛装の時には必要となる。だが、成人したとはいえ出仕の途もなく、我が家の宴席にさえ出席を許されない淑夜には、今のところ無用の代物だ。 「これを売れば、どれだけ書物が購《あがな》えるかわからないぞ」 「そんなに買っても、この部屋にははいりませんよ」  淑夜は苦笑した。 「将来、必要になるかも」 「その時はその時です。ほんとうに必要なものなら、その時にまた別のものが手にはいるでしょう。手に入らないなら、それは必要ないということですから」 「ほんとうに、いいのか。金銭の出処を訊かれたら……」 「正直に答えればいいのではありませんか。私が梁司馬からそれをいただいたことは、大勢の方が見ておいでですし、身内の必要のために用立てるのが違法になるとは思いません」 「しかし、それが梁司馬に知れたら……」 「憶えておいでではないと思いますよ、梁司馬は。逆に、これが二兄が関係しているとしたら、梁司馬の耳にははいらないようにするのではないでしょうか。梁司馬に私のことを思い出されるのは、嫌だと思います」 「……淑夜」 「むしろ、それを手放したと知ったら、二兄は安心すると思います」 「根拠は」 「半年の間に何度か、ここに人がはいった形跡がありました。こんな部屋で、こっそりさがす価値があるものといったら、これしかありません」  証拠はないが、それが二兄の息のかかった者のしわざだというのは火を見るよりもあきらかだった。この佩玉は、梁司馬と誼《よしみ》を通じるための手がかりだった。もしも認められれば、耿家のしがらみを離れて世に出ることも可能だろう。弟がそんな幸運をつかむことを嫌った二兄の気持ちも、わかるような気がする。 「……わかった」  しばしの沈黙の末に、無影がうなずいた。 「ありがたく使わせてもらう」  佩玉を懐《ふところ》に入れ、そのまま立ち上がって出ていこうとして、ふとふりかえった。 「……二兄は、ほんとうはおまえを恐れているのかもしれないな」  ぽつりと、口の中で小さくつぶやいた。  聞きかえそうとした時には、無影の姿はもうなかった。ほんとうに無影がそういったのかも自信がなかった。  それからしばらくは無影の姿を見ることもなく、無影の父の問題もうまくおさまったのか、何も聞こえてはこなかった。二兄との間もあいかわらずで、広い邸の隅で忘れ去られたように日々を送っているうちに、淑夜はこの一件を忘れていった。  やがて、都の義京《ぎきょう》への留学が許され故国を後にした十五歳の日まで、淑夜は平穏な日々を送ることができたのだった。      * 「花の話をするはずが……」  淑夜は苦笑で話をしめくくった。 「とんだ話になってしまいました」 「いいえ、うかがえてよかった」 「私は不幸ではありませんでしたよ。少なくとも、衣食住に不自由したことはありませんでした。家族の縁には恵まれませんでしたが……あの頃は無影がなにくれとなく面倒を見てくれました。義京へ行ったのも、無影の口添えがあったからのことでしたし……」  それからのことは、揺珠も知っている。  留学中に、無影が一族を滅ぼし国主をも弑《しい》して〈衛〉を簒奪《さんだつ》した。ひとり生き残った淑夜は無影の暗殺を謀《はか》って失敗し、羅旋とめぐりあった。それが、すでに名目だけとなっていた〈魁〉の命脈を絶つきっかけとなり、いくつもの国と王の盛衰と混乱の時代を呼んだ。最後に無影が倒れ、淑夜はこうして新しい国を作ろうとしている。  戦乱の中で、本来なら出会うはずもなかった淑夜と揺珠は出会い、そして互いに慕いあった。考えてみれば、ふたりがこうして肩をよせあってふりしきる雪を見ていられるのも、無影のおかげなのかもしれない。  淑夜の帯には今、白い佩玉が下がっている。以前、揺珠が羅旋からもらった原石から彫らせ、婚約の印にと淑夜に贈ったのだ。模様の少ない清楚な作りのそれは、淑夜にふさわしかった。  次の春には〈琅〉は遷都し、ふたりはそこで婚礼をあげることになっている。  揺珠は、そっと吐息をついた。 「淑夜さま」 「なんでしょう」 「次の春には……花が咲いたら、一緒に杏の花を見に行ってくださいますか」 「行きましょう、一緒に」 「お話も、もっと聞かせてください」 「わかりました。あまりおもしろい話ではないかもしれませんが」 「かまいません。いろんなことを知りたいのです」  そして、少しずつ癒していけたらいい。戦乱の傷も、人の心の傷も。  その次の春も、その次も一緒に。  まだ降りやまぬ雪を見ながら、ふたりは同じ約束を胸の中でくりかえしていた。 [#改ページ] 文庫版あとがき 『五王戦国志』文庫版の最終巻を、ようやくお届けいたします。文庫化を待っていてくださった方々、長い間お待たせして申しわけありませんでした。また、今回初めて手に取っていただき、最後までおつきあいくださった方々、ありがとうございました。  これは一九九二年の秋から九八年の七月までの、あしかけ七年をかけて刊行した作品でした。この一巻目を刊行するまでの経緯は、一度書いたことがあるので省きますが、妙に運の強い作品だというのが、当時からの作者の印象でした。いろいろ事情があって文庫入りが遅れていたのですが、その間も焦らずにすんだのは、この作品の運のよさを信じていられたからかもしれません。ともあれ、こうして無事に再びこの作品をお届けできました。  この作品は、いってみれば私の「ファンタジー」の集大成ともいえるものでした。アマチュア時代にいくつか構想していたものは、西欧風のものばかりでした。売るほどたくさん考えたにもかかわらず、書き切れたものは一作もありませんでした。原因は、知識も筆力も根気も圧倒的に足りなかったからに違いありませんが、もうひとつ、なんとはない違和感を自覚していたのです。いろいろ考えたあげく気がついたのは、自分の内部にないものは勉強しても書けない、表現できないということ。皮膚感覚として体得しているもの、自分の内部にあるものは何かと自問自答した結果、たどりついたのは、生まれ育った東アジア、漢字文化圏の素材であり、物語でした。  思えば、子供のころから、『聊斎志異』や『三国志』といった物語に自然になじんでいました。だから、きっと西欧風でないファンタジーだって書けるはずという確信もありました。その漢字文化圏の素材で架空の歴史物語をと何年も試行錯誤した、その結果がこの『五王』です。  物語を書き始めるにあたって、念頭においたことは三点。  まず、ベースは中国の戦国春秋時代に採り、史実は参考にするが、それにとらわれすぎないこと。  主人公に特権を与えないこと。なにも持たない未熟なところからスタートし、何度も失敗させて個人の成長を描きたいというのが二点目。余談ですが、淑夜の唯一の特殊能力である記憶力は、当時の担当編集者さんの「ひとつ特技を持たせた方がいい」という助言のおかげでした。  三点目は、予言や魔法、魔剣、竜や妖精といった道具立てを出さないこと。  三点目に関しては、「ファンタジー」という概念からすれば成功したかどうか、自信がありません。逆に主人公の成長物語という点に関しては、合格点かと思います。キャラクターたちが作者の意図を上回ってどんどん動きまわり、ついていくのがやっとだったという点では失敗でしたが。  今回、文庫化にあたって一篇、短篇を収録しました。これは電子出版のプレゼント企画用に書き下ろしたもので、数年ぶりの『五王』の世界でしたが、すんなりと物語が動きだしてくれました。本編は完結しましたが、あのキャラクターたちは今でもあの世界でそれぞれの人生を生きているのではないかと、力量不足の作者は思っていたりもしています。  実は個人的な事情で、ここしばらく仕事をスローダウンさせていました。これまで蓄積していたもの、特に精神的なもの、気力や感情を吐きだしきった結果、エネルギー容量が空っぽになったのが原因のようです。泣いたり怒ったり感動したり何かを好きになったりするのには大変な力が必要だし、それが仕事への力にもなっていたのだと痛感しました。しばらくマイペースを保ったおかげで、少しずつ、またいろいろな気持ちが満ちてきているような気がします。この『五王』のような力まかせの荒技はもう無理にしても、また、新しい作品にとりかかっています。なかなか思うにまかせませんが、そのうちに、今までとは少し違ったものをお届けできるかと思います。  最後になりましたが、忘れっぽい作者のフォローをしながらきれいな文庫に仕上げてくださった担当さんと、二度目の仕事におつきあいくださった表紙の小林智美さんに感謝を申しあげます。  では、またお目にかかれますよう。  二〇〇四年 年初 [#地付き]井上祐美子 拝 [#地付き]一九九八年七月 中央公論社刊 [#改ページ] 底本 中公文庫  五王戦国志《ごおうせんごくし》 8 ——天壌篇《てんじょうへん》  著者 井上《いのうえ》祐美子《ゆみこ》  2004年1月25日  初版発行  発行者——中村 仁  発行所——中央公論新社 [#地付き]2008年9月1日作成 hj [#改ページ] 修正  《→ 〈  》→ 〉 置き換え文字 |※《あ》 ※[#「Y」に似た字、第4水準2-1-6]「Y」に似た字 |※《き》 ※[#「火+軍」、第3水準1-87-51]「火+軍」、第3水準1-87-51